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東京高等裁判所 昭和57年(う)1382号 判決

控訴人 被告人・弁護人

被告人 嶋津安則

弁護人 虎頭昭夫 外六名

検察官 窪田四郎

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人虎頭昭夫、同伊達秋雄、同小谷野三郎、同中村巖、同鳥越溥、同的場徹、同築地伸之共同作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、検察官窪田四郎作成名義の答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

「公然性」に関する事実誤認及び法令適用の誤りの主張について

所論は、要するに、原判決が、被告人から静岡県教育委員会委員長ほか二か所に郵送された、石川栄作の名誉を毀損する投書は、約二〇名という多数人に、その内容を閲読もしくは聞知されたのみならず、さらに広範囲の者に伝播する可能性があつたから、右投書による名誉毀損は「公然性」を有する旨を認定判示したことに対し、右判決は、単に「約二〇名」という人数に目を奪われ、被告人の投書の動機、投書先の公的調査機関としての立場、伝播可能性がなかつたこと等についての事実を誤認し、ひいて法令の適用を誤つたものであつて、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである、と言うものである。

そこで、まず、原判決の認定した罪となるべき事実を見ると、その要旨は、被告人が、静岡県立下田北高等学校(以下北高と言う。)音楽担当教諭石川栄作の名誉を毀損しようと企て、昭和五四年一〇月一七日ころ、下田市内の自宅において、北校在学中の生徒の父兄を装い、その事実がないのに、「音楽の石川先生が市内にあるサロンサウナの売春事件の時にサウナにいる現場を見つかつて書類送検された。先生は免職にならず平気で授業をしている。学校の先生が売春を目的でそのような場所に行くなんて本当に腹が立ちます。」等と虚偽の事実を記載した手紙三通を作成し、封書にしたうえで郵便ポストに投函し、そのころ、これを静岡市内の静岡県教育委員会ほか二か所に配達させて同教育委員会職員ら多数の者に閲読もしくはその内容を聞知させ、もつて石川の名誉を毀損した、というものである。

そこで、原審記録を調査し、右投書に至る経緯、その郵送先における閲読、聞知の状況等について検討すると、以下の事実を認めることができる。

(一)  被告人は、北高を卒業した後、父親の経営する株式会社志満津(雑貨卸商)の専務取締役として働くとともに、下田SESと称して、子女に英語及び柔道を教え、また、昭和五一年六月からは、下田市市議会議員の職にあるものであるが、北高在学中、同校ブラスバンド部に所属したことから、同部の先輩部員であつた石川栄作(本件当時、北高の音楽担当の教諭)と知り合い、右市議会議員選挙の折には、その応援を得ている。しかし、その後石川が会長、被告人が副会長となつて結成した北高ブラスバンド部のOB会による楽器の購入等をめぐつて、両者の間は疎遠となり、同五四年七月初旬ころから、被告人は、石川に悪感情さえ抱くようになつていた。

(二)  同年九月中旬ころ、下田市内の「サロンサウナ」が売春防止法違反容疑で警察の取締りを受け、同事件は地元紙に報道されたが、他方、石川は、従前北高の同僚あるいは友人に対し、外国製のポルノ雑誌やブルーフイルムを見せたり、トルコ風呂の体験談を話したりなどし、同校生徒に対しても、これに類する話をしたことから、同年九月二〇日ころ、北高三年生男子生徒一一名位に対する音楽の授業中に、生徒から、右「サロンサウナ」の取締りとの関連について質問を受けるに至つたが、石川は、これを否定することなく、かえつて、同所で逮捕されたかのような口吻を示し、かつ、今後書類送検されるのではないかとの趣旨の答えをしたため、これを聞いた生徒らに、石川が、「サロンサウナ」の取締りの際、客として居合わせ、取調べのうえ書類送検されるのではないかとの疑いを生じさせることとなつた。

(三)  石川が、右取締りに関連して警察の取調べを受けたことはなかつたにもかかわらず、右問答は、同人の前示のような日頃の言動と相俟つて、北高生徒の間に、石川が「サロンサウナ」の取締りの際に、客として居合わせ、書類送検されたとの噂(以下本件噂と言う。)となつて広がり、間もなく、北高二年生でブラスバンド部に所属する佐倉一樹及び鈴木孝の両名は、本件噂を、同級生から聞き及ぶに至つた。

(四)  同年一〇月中旬ころ、被告人は、下田市内の軽音楽愛好者で結成されている音楽バンドの練習が、同市須原の公民館において行われた際、同バンドのメンバーとして加わつていた右佐倉及び鈴木から、本件噂を聞き知り、同人らに、その話は本当かと問い質したところ、佐倉は、本当らしいよ、三年生が授業中石川先生から、「困つたことになつた、サロンサウナの売春事件で調べられた。」と聞いたと言つているから、との趣旨を答えた。これを聞いた被告人は、過去に石川から聞き及んだトルコ風呂の体験談等の言動に徴し、本件噂にかかる事実は間違いないと思い込むに至つた。そこで、被告人は、この際、右事実を石川の監督者的立場にある者に知らせ、同人に対し、何らかの懲戒、配置換え等の措置をとらせて、かねての怨みを晴らそうと考え、静岡県教育委員会委員長(以下教育委員長と言う。)、北高校長及び北高PTA会長に対して、投書の形で本件噂を知らせることとした。そこで被告人は、同月一七日ころ、北高在学生の母親を仮装して鈴木典子(ただし、北高校長あての分は鈴木の姓のみ。)の偽名を用い、石川が前記「サロンサウナ」の取締りに関連して書類送検された旨聞き及んだとし、暗に同人に対する懲戒ないしは配置換えを望む趣旨の投書(以下本件投書と言う。)三通を作成し、それぞれの宛名を右三名としたうえ、翌日これを投函して郵送した(ちなみに、本件投書に及んだほかには、被告人において、本件噂を他に洩らした形跡はない。)。

(五)  教育委員長あての本件投書は、同月二二日ころ、静岡県教育委員会に配達されたが、同委員会企画調整課主幹袴田哲夫において、これを取り扱うべき所管課を決定すべく開封し、直ちに同委員会高校教育課に回付した。同課において人事管理を担当する五名の管理主事(以下人事係と言う。)及び同課人事担当の朝日奈課長補佐の間で、これを回覧したが、人事係の責任者的立場にあつた主幹兼管理主事長藤利夫は、その内容が真実であれば、何らかの処分を考えざるを得ないところから、朝日奈課長補佐の指示に基き、事実調査を行なうべく、電話により、宮下仁男北高校長に対し、調査方を依頼するとともに、人事係の大野管理主事に対し、警察へ問い合わせて事実の有無を確認するよう命じた。同管理主事は、従前、生徒指導を担当していた関係上知り合つていた静岡県警察本部監察官斉藤豊三郎に対し、情を打ち明けて調査方を依頼したが、同人から事実無根である旨の回答を得、長藤主幹に対し、これを報告した。その後、長藤主幹は、宮下校長から、石川に対する事情聴取の結果、同人は、本件投書にかかる事実を全面的に否定し、投書の差出人に対する告訴も辞さないと言つている等の電話連絡を受け、また、そのころ改めて同校長から、右事実は虚偽であるとの報告を受けたことから、同年一一月初旬には、本件投書にかかる事実は虚偽であると判断し、上司にその旨を報告して、調査を打ち切ることとした。なお、本件投書は、その間、同課課長村山正平までは閲覧に供されたが、その他の上司には閲覧、結果報告等の措置はなされず、その後、長藤主幹において、これを保管することとした。そして、本件投書を閲覧した右各職員は、自らが、地方公務員であるのみならず、人事を担当する者であることから、人事に関係する本件投書について、その内容を他に洩らすことは一切しておらず、同人ら及び前記斉藤監察官から、他にその内容が伝えられた形跡はない。また、右高校教育課には、人事係のほか指導担当係及び庶務係の職員が同一の部屋に配置されているが、係毎に机をかためて執務しており、人事係の管理主事らは、前示本件投書の回覧の際には、手渡しでこれを行い、処理上協議を必要とするときには別室で行なうなど秘密の保持に配慮している。

(六)  次に、北高校長あての本件投書は、同年一〇月二〇日ころ北高に到着したが、これを披見した宮下校長は、投書にかかる事実が真実であれば、教師として許されないことであり、県教育委員会に対して報告しなければならないが、そのためには、まず事実を明らかにする必要があると考え、即日、本件投書を同校教頭田口宣に閲覧させたうえで、投書の差出人を捜し出すよう命じた。同人は、関係帳簿に当たつたが、該当者を見出せず、その旨を宮下校長に報告した。他方、そのころ同校長は、同校生徒指導主事(生徒課長とも言う。)稲葉山治にも本件投書を閲読させ、事実の有無を調査するよう命じた。同人は、職掌柄知り合いの間柄である下田警察署の松本防犯少年課長及び宮津警備課長を訪ね、「サロンサウナ」の取締りの件で投書のあつたことを告げ、その検挙者の中に北高関係者がいなかつたか否かを問い質し、両名から、その事実はない旨の回答を得た。なお稲葉生徒課長は、本件投書についての調査のため、同投書の存在及び内容に触れることなく、北高生徒の父兄のうち親しくしている者三名に電話をして、最近北高について変つたことを聞いていないかと尋ねたところ、そのうちの一名の母親から、子供が石川先生について悪い噂を聞いているようだとの話を聞かされた。そこで、稲葉生徒課長は、同月二二、三日ころ、右調査結果を、宮下校長に報告した。

宮下校長は、右各報告を受けた後、石川本人を呼び、投書にかかる事実の有無を確めたが、同人は、そのような事実はないと強く否定した。しかし、なお念のため、宮下校長は、自ら松本防犯少年課長に電話をして、石川教諭について、本件投書にかかる事実のないことを改めて確認した。その後、同校長は、前示のとおり、直接長藤主幹に対して右調査結果を報告したが、そのころ、本件噂を聞き知つた、同校の讃岐教諭及び網代教務主任から、これについて問もれた際、本件投書を見せて、その差出人に心当たりはないかと尋ねている(網代教務主任については、証拠上直接的にはその経緯が明らかではないが、関係証拠を対比すると、讃岐教諭の場合と同様であると認めるのが相当である。)。

(七)  北高PTA会長の菊池明は、北高の前身豆陽中学校の卒業生であり、下田市内に住み、自宅隣りに医院を開業して、看護婦六名、事務職員二、三名を使用している医師であるが、同月二〇日ころ、同人あてに郵送されてきた本件投書を披見したところ、その内容に照らして、本件投書は、同人の北高PTA会長としての立場にあてられたものと考えられたことから、後日学校側と事実の有無の調査について打ち合わせるべく、一応、自宅食堂にある同人用の状差しに入れておいた。そのころ、同人は、自宅食堂において、同席している同人の母千佐、妻君江及び二女みさ子に本件投書を見せ、また、同人らがこれを話題にしていた際、かねて菊池会長の別荘に無償で居住し、屡々同会長宅に出入りして懇意にしていた北高教諭の成岡均が訪れてきたが、同会長は、事実の有無を確認すべく、成岡に本件投書を閲読させたが、前示のとおり、本件投書については、学校側と打合せのうえ、処置しようと考えていたことや、その内容が北高に不名誉なことでもあつたことから、看護婦その他に本件投書を見せ、あるいはこれに関する話をしたことはない。また、同会長の家族らにおいても、同様これを他に洩らした形跡は見受けられない。もつとも、右成岡は、その後、同僚の鈴木義男に右投書の件を話している(ただし、鈴木義男の証人尋問調書によれば、同人は、成岡から、初めてこの話を聞いた旨述べているが、右話の内容は、本件投書の内容と異なつた、独自のものを含んでおり、他の関係証拠と対比すると、最初には、他から、流布されているうちに変形した本件噂を聞き及んだのではないかとの疑いを拭い得ない。)。

そして、菊池会長は、右投書受領後間もなく、自宅を訪ねて来た宮下校長に対し、本件投書の件を相談したが、同校長の許にも同種の投書が来ており、既に事実調査を始めていることを聞いたこともあつて、問題の処理を同校長に任せることとし、本件投書を手渡した。同校長は、右菊池会長宛の本件投書を、自己あての分とともに保管しておいた。

(八)  他方、石川は、前示のとおり宮下校長から事情聴取を受けた後、北高職員室において、投書が来て迷惑しているなどと同僚にこぼしたこともあつたが、本件投書の筆跡から差出人を確認しようと考え、その複写方を同校長に懇請して、本件投書のコピーを入手した。その後、石川は、本件投書のコピーを持つて、被告人との共通の友人である小林幸男を訪ね、右コピーを見せ、その筆跡が被告人のものであることを確認させるなどしている。また、そのころ、石川は、北高男子生徒一三名位の前で、自ら本件投書のあつたこと及び投書にかかる事実のないことを明言して、前言を取り消した。

(九)  なお、北高野球部の生徒の暴力事件に関連して、同年一〇月末ころ、父兄一二、三名を集めて会が開かれ、席上、野球部監督をしていた前示成岡均らが、生徒の行動について注意したところ、父兄の一人から、生徒も生徒だが、北高の先生にもサウナに行つて書類送検された者がいるではないか、そのような先生の許では、生徒は良くなりつこないとの趣旨の発言があり、出席者の殆んどが、笑つて、これに相槌を打つたことがあつた。

以上のような事実関係の下で、被告人の本件投書による所為が公然性を有するものか否かについて、以下検討する。

1  およそ名誉毀損罪における公然とは、不特定又は多数の人が認識することができる状態を言うのであるから、人の名誉を毀損するに足りる事項を記載した文書が、直接には、それ自体で多数とは言い得ない特定人に対して郵送された場合にあつては、法の趣旨に従い、当該文書の性質、内容、相手方との関連、その他具体的諸事情を総合して、社会通念により、その記載内容が不特定又は多数の人に伝播する虞れが有るか否かを検討し、これが認められないときは、当該所為の公然性はこれを否定すべきものである。

これを本件について見るに、本件投書に及んだ被告人の主観的意図は、投書にかかる事実を、広く社会的に流布しようとするものではなく、前示のとおり、石川に対する懲戒ないしは配置換え等の実現を図ることにあつたものであるが、その手段が投書である以上、公然性を判断するには、投書の内容、名宛人の立場等を総合的に考察して、他へ伝播する虞れがあつたか否かを決定する必要があるものと言わなければならない。

2  そこで、まず、本件投書の内容を、更に仔細に吟味すると、その前半部分は、本件噂と同一の事実を、投書者の娘が学校で聞いてきた話として取り上げたうえ、石川が免職になつていないのに驚いたなどとの投書者の感想を記し、その後半部分においては、強く、問題の解決と再発防止策とを求めていることが明らかである。従つて、本件投書は、投書者において、右事実を真実であると信じたことを前提として、投書者の意見が述べられているが、これを客観的に観察するときには、当該事実に関し、学校でそのような話があつたとして取り上げたものに過ぎないことが明らかに看取され、読者をして、直ちにはこれを真実と信じさせうる体のものではない(原判示本件投書の内容中、当該事実についての判示は、以上の意味において、不正確との譏りを免れ難い。)。

3  そして、本件投書の内容が右のようなものである以上、これが他へ伝播する虞れがあるか否かは、名宛人の立場いかんとも関連するところであるから、次に、これについて見ることとする。

〈1〉  教育委員長関係

イ 本件投書中、教育委員長にあてられたものは、前示のとおり、教育委員会事務局の所管課において処理されているところ、教育委員会は、委員五人によつて組織される合議体であつて、その権限の中には、所管に属する高等学校教員の任免その他の人事に関する事項の管理及び執行を含み、教育委員会委員長は、委員会を代表するものであり(地方教育行政の組織及び運営に関する法律三条本文、二三条三号、一二条三項)、また、教育委員会事務局は、同委員会の権限に属する事務を処理すべき補助機構である(同法一八条一項)。ところで、本件投書は、教員の人事に関するものであり、事実調査等の事務の処理に際し、秘密保持を必要とすることは、一見して明らかである。従つて、これを直接取り扱うべき人事担当の事務局職員は勿論、これが処理される過程において、当該内容を覚知し得た職員もまた、法律上守秘義務を課せられている(同法一九条、二二条、地方公務員法三四条一項、六〇条二号)ものと言うべきである。してみれば、前示のとおり、教育委員長あての本件投書が、限定された同事務局職員数名によつて閲読されても、それは、一個の組織体内部における事務の処理に伴うものであつて、守秘義務を有する同職員らから、当該組織体の外へは勿論、内部の関係のない、他の職員への伝播の虞れを考えるのは相当ではない。

以上に関連して、原判決は、本件投書の処理を担当した同事務局高校教育課は、同一の部屋に、人事係のほか、指導担当係及び庶務係が配置され、常時約三〇名の職員が勤務し、必要に応じて協議しているとして、伝播する可能性があつたと判示する。しかし、同一の部屋に配置されている職員が、自己の職務との関連上、秘密とされるべき事項を聞知した場合には、当該職員もまた、その秘密を守るべき義務があることは当然であつて、これをもつて伝播可能性の論拠とするには由ないところであり、また、本件投書は、関係者の間において、手渡しで回覧され、これに関する協議も別室でなされるなどの配慮がなされたというのであるから、右事実をもつて伝播可能性の根拠とはなし難い。

ロ また、右事務処理の過程において、人事係大野管理主事は、当該事実の有無に関し、静岡県警察本部斉藤監察官に対して照会しているが、同監察官は、自己の警察官としての立場上、教育委員会の事務処理に協力したものであつて、その身分、事柄の性質にかんがみ、これを他に漏洩する虞れはないと考えるのが相当であり、従つてまた、右照会をとらえて、当該事実が伝播したとか伝播する虞れがあるとすることはできない。

〈2〉  北高校長関係

イ 本件投書を披見した宮下校長は、前示のとおり、投書にかかる事実の有無を調査するため、田口教頭及び稲葉生徒課長に対し、これを閲読させたうえ、投書者の割出し及び警察への問合せを命じている。

ところで、校長が、事務処理上、どのような事項を教育委員会に報告すべきかは、当該両組織間において定められるところによるべきことは勿論であるが、本件投書の内容が真実であれば、懲戒その他の措置を取るべき場合である(朝日奈達郎の証人尋問調書)というのであるから、所属職員を監督すべき校長の立場(学校教育法五一条、二八条三項)からすれば、本件投書については、当該事実の有無を調査し、必要に応じて、これを教育委員会に対して報告すべき義務があると言わなければならない。

してみれば、宮下校長としては、本件投書について、前示同様守秘義務を有する(地方教育行政の組織及び運営に関する法律三五条、地方公務員法三四条一項、六〇条二号)のみならず、本件投書の内容自体、北高にとつて不名誉な事柄である以上、同校長から不特定又は多数人へ伝播する虞れはないと言うべきである。現に、同校長は、前示田口教頭らに対する以外には、前示のとおり、本件投書にかかる事実と同一内容の本件噂を知つていた讃岐教諭らから問われて、始めて差出人の心当りを尋ねるために本件投書を見せ、これに関する話をしているに過ぎないのである。

ロ 他方、田口教頭は、教頭として、校長を補佐し、これに事故があるときは、その職務を代理すべき立場にあつたものであり(学校教育法五一条、二八条四項、五項)、本件投書の処理に関しては、校長と同じく守秘義務を有することなどからすれば、同様伝播の虞れはない。また、稲葉生徒課長は、内部組織上、生徒指導に関して校長を補佐し、右職務の関係から、平素警察との連絡に当たつていたものであり、本件において、宮下校長から警察への問合せを命じられたことは、右職務に密接に関連した事項と言うことができる。このような場合において、同生徒課長に職務上の守秘義務があると解すべきかどうかは暫らく措くとしても、事柄の性質上、本件投書にかかる事実について秘密を保持すべきものであることは当然の筋合いであり、同生徒課長としても、十分にこれを理解していたと言うべく、伝播の虞れはない。現に、下田警察署の防犯少年課長及び警備課長に対する問合わせの際にさえ、石川の氏名を挙げず、単に「サロンサウナ」の取締りの際、検挙者の中に北高関係者がいなかつたかどうかを照会したに止まつており、また、事実調査の過程で接触した父兄に対しても、本件投書の内容に触れた発言をしてはいないのである。

以上によれば、宮下校長は、事実調査につき、田口教頭及び稲葉生徒課長に補佐を命じたに過ぎず、同人らから他へ伝播する虞れはなかつたと解するのが相当である。

ハ 原判決は、本件投書は、宮下校長を通じて田口教頭ら三名に閲読され、讃岐勝広ら二名の教員及び松本忠義ら警察官二名に、その内容が知らされた旨を判示している。右判示と前示認定事実とを対比すれば、右のうち、田口教頭ら三名とは、田口教頭及び稲葉生徒課長のほか石川本人を、讃岐ら二名とは、同人のほか網代教務主任をそれぞれ指すものと解される。なお、警察関係については、稲葉生徒課長において、石川教諭の氏名を明らかにすることなく照会したに過ぎないことは前示のとおりであり、宮下校長において、同教諭の氏名を告げて照会したのは松本防犯少年課長のみである。

そして、田口教頭及び稲葉生徒課長による本件投書の閲読は、前示のとおりであつて、他へ伝播する虞れはなく、また、宮下校長の松本防犯少年課長に対する照会については、前示斉藤監察官に対する場合と同様に解すべきであるから、これをもつて伝播し、あるいは伝播する虞れがあるとすることはできない。次に、石川教諭は、本件投書にかかる事実の対象者本人であるから、事情聴取を受けた際における投書内容の聞知ないしは閲読をもつて伝播性を論ずるのは相当とは言えない。また、讃岐教諭及び網代教務主任については、いずれも本件噂を聞知したうえ、宮下校長へ問い合わせたところから、本件投書の差出人を知るべく、これを示したものであり、その際、投書の内容を閲読し、あるいは当該事実に話が及んだにせよ、本件噂を聞知していることを前提としてなされたものである以上、これをもつて伝播性を云々することは相当ではないと言わなければならない。

原判決は、また、北高の殆んどの教員において、本件噂を内容とする投書が郵送されてきたことを知つていた旨判示する。しかし、北高の大半の教員において聞知していたものとして、原判決が力点を置くところが奈辺にあるのか必ずしも明確ではないが、一応、〈a〉本件投書にかかる事実自体を問題とする場合、〈b〉本件投書とともに、当該事実を問題とする場合の両者に分けて考察する。まず〈a〉については、たしかに、関係証拠によれば、本件投書にかかる事実(本件噂と同一である。)が流布されたことが認められるが、前記認定の(三)、(四)、(六)中父兄の話及び(九)の各事実を併せ考えると、右は、石川教諭自身の言動に起因するものと解するのが相当である。また、〈b〉については、前記(八)に認定、判示したとおり、石川教諭自身、北高職員室において、投書がきて迷惑しているなどと同僚にこぼした、というのであり、その際には、本件投書の存在、当該事実、これを否定する同教諭の言辞の三者が話題となつた(原審証人宮下仁男、同稲葉山治の各証言)のであるから、この三者が一体となつた話として流布されたものと解される。してみれば、右は、本件投書にかかる事実自体とは、似て非なるものであるから、本件投書と間接的な関係はあるにせよ、これをもつて、本件投書による伝播とすることはできない。以上の次第であつて、本件噂と同一内容の、本件投書にかかる事実が流布されたからといつて、これを投書に起因して伝播したものと言うことはできない。

〈3〉  北高PTA会長関係

イ 本件投書の名宛人の一人である菊池明は、下田市内に居住する開業医であり、北高の前身豆陽中学校の出身者でもあつて、昭和四九年四月ころから、引き続き北高PTA会長の地位にあつたものである。

ところで、PTAの目的とするところは、学校の円滑な運営に寄与し得るよう、これに協力することにあり、教員の人事とは、何らの関係をも有するものではない。しかし、本件投書が北高PTA会長にあてて郵送されてきたこと、その内容が前示のとおりであることを併せて、これを客観的に見れば、本件投書は、PTA会長の事実上の影響力を利用して、同会長から学校側に対し、懲戒その他何らかの措置を求めさせるべく意図したものと解することができる。

このような場合において、教員の人事に関与すべき、何らの権限のないPTAの会長としては、本件投書にかかる事実の真偽の確認及び真実とすれば、これに対する善処方を学校側に委ねるため、校長に対して本件投書を手交しようとするのが一般である。すなわち、二、三の役員の間にせよ、教員の人事に関する権限のないPTAとして、その対策を相談することは、通常あり得ないところである。また、右事実自体不確実であるとともに、これが公になれば、北高の名誉を損するものであることからすれば、同会長の立場上、これを他へ口外するとも考え難いところである。現に、同会長の行動が、右と同一の経過を辿つていることは、前示のとおりである。

ロ もつとも、同会長が自己の家族及び成岡教諭に対して本件投書を閲読させたことは前示認定のとおりであるが、同会長としては、右イに述べたところを併せ考えると、相手が自己の家族ないしは家族同然とも言うべき親交のある者であり、同人らから他へ洩れることはないとの前提の下に、これを閲読させたと解するめが自然であり(現に、自己の周囲の看護婦らにさえ、これを閲読させたり、あるいはその内容を口外してはいない。)、他方、家族としては、みだりに他人に口外するときは、PTA会長である菊池を、徒に困惑させるのみならず、問題の処理を困難にさせる結果を招くべきことを十分認識していたと解すべく、現に、家族から他へ伝わつた形跡はない。

なお、成岡も、同会長から、極秘との暗黙の了解の下に本件投書を見せられたとし、右閲読の際には、同会長及びその家族らに対し、本件投書にかかる事実は虚偽であり、石川教諭に対する中傷である旨力説したと言うのである(原審証人成岡均の証言)から、成岡教諭から、右事実が他へ伝播するとも、直ちには考え難い(同教諭は、同僚の鈴木義男に対して、本件投書の件を話したことが認められることは前示のとおりであるが、先にも述べたとおり、鈴木義男の証人尋問調書によれば、石川が取締りから逃れて云々との同人との供述内容は、特異な内容であり、本件噂の変形したものと、成岡教諭から聞知した投書の件とが混同したうえ、その記憶が構成されたのではないかと考えられる。してみれば、同教諭から本件投書の件を先に聞知したことの証明のない以上、鈴木は、変形したものにせよ、本件投書とは関係なく、本件噂を聞き及んだのが先ではないかとの疑いを前提として考えざるを得ないところである。以上の次第であるから、結局、成岡としては、本件噂の変形したもの(それ自体、石川教諭の名誉を毀損する類いのものである点において、本件投書にかかる事実と径庭はない。)を聞知した鈴木に対し、右投書の件を話したと解するのが相当であり、これをもつて、伝播の証左とすることはできない。)。

4  以上の次第であつて、本件投書の郵送先である教育委員長、北高校長、同校PTA会長の三者については、いずれも、名宛人又は同関係者等一部局限された者から、他へ伝播する虞れはなかつたものと言うべく、これを総合的に考慮しても、二〇名近くの者が本件投書を閲読ないしはその内容を聞知したとはいえ、如上縷説した諸事情を併せ考えると、未だもつて「公然」名誉を毀損したと解することはできない。

なお、原判決は、本件投書三通について、いずれも親展の記載がなく、また内容上も他の者の閲読を禁ずる旨の記載がなかつたことをもつて、公然性を認める論拠の一つとしているが、本件投書の内容、各名宛人の立場が前示のとおりである以上、親展の記載がないこと等から、直ちに、これが転々すると解することはできない。

また検察官は、被告人が、原審において、事を公にしようと思い、本件投書に及んだ旨供述しているとし、他方、投書の形式、内容及び名宛人からすれば、事を公にする目的であつたことが明らかである旨主張する。しかし、被告人の言う「公」ないし「公然化」とは、本件投書によつて、当該事実が闇に葬られることなく、当局において取り上げられ、もつて、石川教諭に対して懲戒その他の措置に至るべき、調査の端緒としようとしたものであつて、これを社会的に広める意図ではなかつたとする趣旨に過ぎないことが明らかであり、また、本件投書の形式、内容及び名宛人については、前判示のとおりであるから、所論は採用し難い。

5  以上の次第であるから、結局、原判決は、公然性の判断の基礎となるべき事実を誤認するとともに、刑法二三〇条一項の解釈適用を誤つたものと言わざるを得ず、その誤りは、判決に影響を及ぼすことが明らかである。従つて、原判決は、その余の控訴趣意について判断するまでもなく、破棄を免れず、論旨は理由がある。

よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三八〇条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、被告事件につき、さらに次のとおり判決する。

本件公訴事実の要旨は、先に摘示した、原判決認定の罪となるべき事実の要旨中、郵送により、本件投書を閲読、聞知させた者について、「同教育委員会職員ら多数の者」とあるのを、「同教育委員会職員ら不特定多数の者」とするほか、これと同じであるところ、前段説示のとおり、被告人による本件投書の郵送には、公然性を認めることができないから、犯罪の証明があつたとは言えず、同法三三六条により、被告人に対し無罪の言渡しをする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 草場良八 裁判官 半谷恭一 裁判官 須藤繁)

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